タイムトンネルのようなエスカレーターを抜けて、九州国立博物館へ。
古代日本のルーツを知りたいというのが、もともとの動機。展示品の豊富さには圧倒された。
しかし、中央ホールの展示は、ややランダムの感ありで、順路がわかりにくかった。
中央を囲んだテーマ別コーナーの展示は、なかなか充実していただけに、残念だった。
ということで、1日かけても足りないなと思いつつ、次なる目的地、太宰府跡へと向かった。
古代日本のルーツを知りたいというのが、もともとの動機。展示品の豊富さには圧倒された。
しかし、中央ホールの展示は、ややランダムの感ありで、順路がわかりにくかった。
中央を囲んだテーマ別コーナーの展示は、なかなか充実していただけに、残念だった。
ということで、1日かけても足りないなと思いつつ、次なる目的地、太宰府跡へと向かった。
太宰府天満宮
2007年8月29日
地理が頭にないものだから、ひたすらナビに従って天満宮を目指した。行く途中、太宰府跡が目に入った。一瞬迷ったが、そのまま通り過ぎて天満宮へ。駐車場から参道を通って、天満宮まで歩かなくてはならない。結構、距離がある上、5月とは思えないほどの暑さ。
九州最古の鳥居をくぐると赤い太鼓橋の下は、池。カメがやたらにたくさんいて驚いた。
もともと天神さんを信奉している身なので手を合わせてお参り。ついでに御朱印もしっかりゲット。
奥へ奥へと進むと、裏の通りに抜けるトンネルがあった。千とちひろに出てきたような赤煉瓦のトンネルに、ちょっとタイムスリップの気分だった。あっちの世界にいっては行けないと、思わず後戻り。
そんなこんなを見ていくうち、暑さと空腹で倒れてしまいそうな気分になってしまった。
お休み処に入り、メニューを見たら、「冷やし麦」とある。
これは本州で言う冷や麦のことだろうか・・・といぶかしみながら注文。
予想通り、来たのは冷や麦だった。缶詰のミカンやチェリーの浮いているのが素朴。
「今年初めての冷やし麦です」
と、お店の人に言われた。暑さで参った体には、涼しく浸みた。しばらく休憩の後、国立博物館目指して歩き出した。途中、大好きな黒田如水の墓碑があり、思わず手を合わせた。
国立博物館への道、家族連れやにぎやかなカップルが同じ方に向かってくる。なんだろうと思って進む方を見たら、途中からの別れ道の向こうに“天神さん”には合わないような遊園地が見えた。
いずこも同じか・・・と、失望感を抱きながら、博物館に向かった。
九州最古の鳥居をくぐると赤い太鼓橋の下は、池。カメがやたらにたくさんいて驚いた。
もともと天神さんを信奉している身なので手を合わせてお参り。ついでに御朱印もしっかりゲット。
奥へ奥へと進むと、裏の通りに抜けるトンネルがあった。千とちひろに出てきたような赤煉瓦のトンネルに、ちょっとタイムスリップの気分だった。あっちの世界にいっては行けないと、思わず後戻り。
そんなこんなを見ていくうち、暑さと空腹で倒れてしまいそうな気分になってしまった。
お休み処に入り、メニューを見たら、「冷やし麦」とある。
これは本州で言う冷や麦のことだろうか・・・といぶかしみながら注文。
予想通り、来たのは冷や麦だった。缶詰のミカンやチェリーの浮いているのが素朴。
「今年初めての冷やし麦です」
と、お店の人に言われた。暑さで参った体には、涼しく浸みた。しばらく休憩の後、国立博物館目指して歩き出した。途中、大好きな黒田如水の墓碑があり、思わず手を合わせた。
国立博物館への道、家族連れやにぎやかなカップルが同じ方に向かってくる。なんだろうと思って進む方を見たら、途中からの別れ道の向こうに“天神さん”には合わないような遊園地が見えた。
いずこも同じか・・・と、失望感を抱きながら、博物館に向かった。
板付遺跡探訪
2007年8月28日
縄文期、まだ狩猟文化の中にあったと社会科で習ったのだが、近年、いろいろなところで発掘・研究が進み、その論が覆されている。
この板付遺跡も、縄文後期には稲作が営まれたいたことを示す貴重な遺跡の1つである。そのため、かねてから一度は訪れてみたいと思っていたところである。
住居の復元はもちろん、V字型の掘られた内輪の環濠と、自然の水路を利用した外環濠などから、当時の集落の生活や、外敵への備えの様子などうかがうことができる。
環濠集落のそばの水田跡や水路の様子も、小規模ながら復元されている。
周囲が新興住宅やマンションらしき建物に囲まれているのは、背景として悲しい気もしたが、それも時代ですね。
遺跡までの道も整備された住宅の道という感じで、遺跡の周囲は緑陰美しい散歩道風。
5月というのに、かなり暑くて、さすが九州だなぁと思ったのを覚えている。
この板付遺跡も、縄文後期には稲作が営まれたいたことを示す貴重な遺跡の1つである。そのため、かねてから一度は訪れてみたいと思っていたところである。
住居の復元はもちろん、V字型の掘られた内輪の環濠と、自然の水路を利用した外環濠などから、当時の集落の生活や、外敵への備えの様子などうかがうことができる。
環濠集落のそばの水田跡や水路の様子も、小規模ながら復元されている。
周囲が新興住宅やマンションらしき建物に囲まれているのは、背景として悲しい気もしたが、それも時代ですね。
遺跡までの道も整備された住宅の道という感じで、遺跡の周囲は緑陰美しい散歩道風。
5月というのに、かなり暑くて、さすが九州だなぁと思ったのを覚えている。
まずは元寇、防塁
2007年8月27日
昨年5月、史跡巡りの旅に出た。見たかったものは、元寇に備えて築かれたという防塁跡。
現在は綺麗に整備されて、残っている部分は少ないのだが、これはある学校の裏にあった防塁跡。まわりは住宅地になっていて、説明がなければなにかの側溝跡のように思うだろう。
防塁は、名前の如く、たかく築いた土手(堤防)をイメージしていたが、石と粘土を使って綺麗な石積みになっていた。石を節約するために粘土を利用したとかいうことだが、高度な土木技術を伺わせる。
周りは綺麗な芝生で、涼しげな木陰もあった。元寇に備えて緊迫した突貫工事だったであろう当時を思うと、皮肉な気もした。
この防塁跡の直ぐ近くの2階建てアパートに、大きなダイエーホークスの応援旗がはためいていたのが印象的で、苦笑しながら思わず、写真に納めてしまった。
現在は綺麗に整備されて、残っている部分は少ないのだが、これはある学校の裏にあった防塁跡。まわりは住宅地になっていて、説明がなければなにかの側溝跡のように思うだろう。
防塁は、名前の如く、たかく築いた土手(堤防)をイメージしていたが、石と粘土を使って綺麗な石積みになっていた。石を節約するために粘土を利用したとかいうことだが、高度な土木技術を伺わせる。
周りは綺麗な芝生で、涼しげな木陰もあった。元寇に備えて緊迫した突貫工事だったであろう当時を思うと、皮肉な気もした。
この防塁跡の直ぐ近くの2階建てアパートに、大きなダイエーホークスの応援旗がはためいていたのが印象的で、苦笑しながら思わず、写真に納めてしまった。